s-tokuji’s blog

 記述方針の変更 ――記事№5

 「古田武彦氏の説のウソ、№...3」

 

 

先にA氏のホームページを紹介しましたので、ここを読んでいる方、皆さんがすでにそこを見ている、と想定して書き進めるつもりでしたが、なぜかイメージが定まらずうまくキータッチが進みません。

今回は脳内整理ため、A氏の記述の要約記事を書くことにします。それと、できるだけ引用を避けるつもりでしたが、今後必要に応じて、A氏の記述を引用させてもらうことにしました。こうすれば書き込んでいく対象が定まりまると思います。

読む方は煩雑になりますが、ご容赦願います。

 

 

A氏所論の概説

 

A氏は、自分の主催するホームページで、古代史諸説が持つ諸問題についての所論を発表しています。その中の一論文で古田氏を取り上げています。A氏が直接対象としているのは第一作「邪馬台国はなかった」です。

 古田氏はこの著書の中で当時定説であった「倭の第一回遣使」景初三年説を「三国志」原文の改訂であるとし、「第二章いわゆる《共同改訂》批判Ⅱ戦中の使者」で景初二年説を展開しています。

A氏は、定説の立場にたって、古田氏の景初二年説を批判しています。

 

 1 景初3年が正しい理由

倭の遣使が景初3年であることは、筑摩書房版の『三国志』訳本の東夷傳序文で明白である。また、姚思廉(「梁書」の編者)、そして日本の碩学、松下見林・新井白石内藤湖南も同意見であった。

 2 古田氏によるミスリード

古田氏は「魏志東夷伝」序文を重視し、景初2年説を展開しているが、氏の主張は、序文中の「景初2年6月は間違いであると判断せざるを得ない記述を意図的に隠したもの」である。そこで「東夷伝序文」と「公孫淵傳」を併せて検証することで、そのことを明らかにした。

 3 「戦中遣使」という説のウソ

新井白石が「其道未だ開けざらむに《景初2年6月は、魏と遼東の公孫淵が戦いの最中なので》我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」と主張している。古田氏は、白石の主張をすり替えと暴論によって否定し、景初2年説を押し通そうとしている。

 4 景初2年を支持する「五つの疑い」のウソ

筑摩書房版「三国志」訳本に「公孫淵誅殺後」とあるのを「戦中遣使」にすり替える古田氏は、「景初2年」説に格好をつける材料として、<「景初3年」として原文を「改定」したら、ついに解決不能となる>という「五つの疑い」を用意している。しかしこれは古田氏が得意とする悪質なレトリックであって、「魏書」等を辿れば全く成り立っていないことが判る。

 5 少帝の輔佐役、司馬懿と曹爽

卑弥呼を「親魏倭王」に任じた詔書は、魏書に景初2年に明帝が発したとあるがこれも問違いで、景初3年に少帝芳が8歳の時発したものである。

(非才な私は、この部分でA氏の述べたいことを理解するのにかなり苦しみました。

  6 中国の学者の「景初2年説」の誤り

近年は中国の研究者の中にも、倭の魏への第一回遣使を「景初二年」と説く人があり、A氏がその説を誤りと指摘している。

 

この様に要約しました。あくまで私の要約なので疑義が生じた場合、A氏のホームページで確認していただきたい。

「景初二年、三年論争」の沿革――記事№4

2−1 景初3年が正しい理由古田武彦氏の説のウソ№2」―1 景初3年が正しい理由―その2

 

「景初二年、三年論争」の沿革

「景初二年か、三年か」という問題は、ご存知の方にとっては「今更」でしょう。しかし初見の方は「一年の違いが何ほどの事があるか」と思われるかもしれません。そこで一応私の認識をお伝えしておきます

二・三年論争以前

「景初二年か三年か」という議論に並行して、中国の史書に出て来る「邪馬台(臺・堆・壹)国」は何処かという議論があります。しかし両議論が議論らしい議論として登場するのは江戸時代に入ってからです。

それ以前は卑弥呼とは「日本書紀」等の国史中に登場する人物の誰にあたるかという推測が興味の中心だったと私は思います。卑弥呼神功皇后であるという説が独壇場だったようです。代表例が北畠親房で、「神皇正統記」の中で「卑弥呼神功皇后説」を唱えています。

邪馬台国が九州にあるというような議論は全くなかったようです。列島内の国家といえば大和朝廷しか想定できない、朝廷内の官僚、知識人の思索・著述しか残っていないのですから、そうなるのは当たり前かもしれません。

 やがて邪馬台国の呼称や、その位置にも興味が向きます。卜部兼方が、日本書紀の注釈書として知られる「釈日本紀」の中で、邪馬台国は「倭=ヤマト」の音をとったものとする説を唱えたそうです。

京都五山相国寺の禅僧・瑞渓周鵬は「善隣国宝記」で邪馬台国の位置を初めて論じたそうです。

江戸時代に入って邪馬台国の位置を九州に求める説が盛んに唱えられました。本居宣長の「熊襲偽僭説」がその嚆矢でしょう。ここで近畿説、九州説が出そろいました。

二・三年論争の始まり

倭の遣使が景初二年か三年かという議論は、江戸時代初期に近畿説を唱える松下見林が提起しました。見林は「三国志」に倭が景初二年遣使とあるのは間違いで、景初三年と訂正しなくてはならないと主張したのです。以後しばらくこの事は議論になりませんでした。明治に入ると、内藤湖南がそこに触れて遣使は景初三年と主張しました。この時も議論にはならず、景初三年遣使は定説となりました。

 二年であろうが三年であろうが邪馬台国が九州であるか、近畿であるかの大勢には関係ないというのが大方の見方だったのでしょう。

しかし、昭和に入り、戦後になると状況が大きく変わります

二・三年論争の激化

古代の遺跡から多く出土する遺物に銅鏡があります。その様式は様々です。様式の一つに、「三角縁神獣鏡」と呼ばれるものがあります。完成度が高く舶載鏡と分類され、おそらく魏の制作ではないかとされていました。

 

三角縁神獣鏡」はほぼ全国から出土しました。しかし圧倒的に近畿からの出土が多いのです。

 少し後の統計ですが、この様式の鏡は少なくとも540面は出土しているそうです。奈良100、京都66、兵庫40大阪38面と続き、福岡は40面でその他九州からや他の都県の出土は本当に少ないそうです。

圧倒的に近畿中心の分布になっています。

 

この出土状況に意味を見た人がいました。彼は近畿地方に統一政権があって、その政権の女王卑弥呼が、「三角縁神獣鏡」を魏の明帝から下賜され、それをさらに地方政権に下賜したのだ、と主張しました。

当然、主張したのは邪馬台国、近畿論の学者です。

 

九州説の立場の学者は魏の鏡ではなく、国産だと反論しましたが、統一政権についての反論は充分ではなかったように思います。そのうち「三角縁神獣鏡」が出土する遺跡について、卑弥呼の三世紀始めではなく、四世紀のものが大部分であることが判ってきました。

 

近畿論は伝世鏡理論で対抗しました。三世紀に貰ったものが子孫に伝わり子孫の代になって陪葬されたという理論です。

 

このように甲論乙駁が繰り返されるうちに、決定的とも思われる鏡が発見されました。

この鏡は制作年度を「景初三年」と銘記された島根県雲南市・神原神社古墳出土の「三角縁神獣鏡」です。この「三角縁神獣鏡」記銘の景観初三(239)年、は、この年、倭が魏に遣使した証拠。魏の答礼使が卑弥呼にもたらし、更に下賜された何よりの証拠の鏡だ、と主張されました。物的証拠が現れ、九州説は圧倒的に不利だと思われました

古田武彦の登場

そんな時、九州説の立場から逆襲の烽火を上げたのが古田武彦氏なのです。氏は考古学者ではなく文献史学者です。「三国志」の記事から遣使は景初三年ではなく、景初二年、そして下賜された鏡百枚も景初二年に準備された物だと論証したのです。すると下賜された鏡に、銘が入っているとしても「景初三年」という文言ではあり得ません。

 神原神社古墳出土の「三角縁神獣鏡」は卑弥呼の下賜された鏡と無関係になります。

 

このように遣使が二年であるか、三年であるかの議論は九州説、近畿説の存亡をかけた論争になっていたのです。

論述からの引用と「三国志」原文の収録――記事№3

2−1 景初3年が正しい理由古田武彦氏の説のウソ№1」―1 景初3年が正しい理由―その1 

 

 

ホームページの主さんを、仮にA氏と呼ぶことにします。

ページ表題は私の記述を要約してあります。本文内の冒頭にA氏の論文との関連を示しました。

 

 

 

A氏はこの様に書き始めます。

 

私は、古田武彦氏の『古代は輝いていたⅠ』を読んで、こんなに面白い本はないと感じました。ところが、『古代は輝いていたⅢ』を読み終えたとき、この大ウソを暴きたいと考えていました。

 卑弥呼の遣わした使者が帯方郡朝貢を願い出た年は、「魏志倭人伝」では、景初2年(238)になっています。しかし、「魏志東夷伝」序文の次のような記述から、この景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

 

公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

 景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

(今鷹真・小南一郎・井波律子訳『三国志2』世界古典文学全集24B:筑摩書房

 

この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。」

 

A氏は原文を収録していません。今後重要な部分だけ「三国志」から抜粋記載しておきます。

 

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。」

 

まずは「自学、自習ノート」についてのご紹介――記事№2

二回目の投稿です。

 

 私はブログについても、ずぶの素人で、とりあえず始めたという状態です。現在手探りで書き込んでいます。従って文字だけの面白みのないページ構成になっています。迷い込んだ方には「ゴメンナサイ」とお詫びしておきます。

 

 私が書き込むのは歴史の「自学、自習ノート」である、とお断りしました。ノートは編年ではありません、私が興味を持ったテーマごとになっています。そういうわけでブログ内の表題はノートごとに付けさせていただきます。

 

 私は故古田武彦さんのファンです。古代史に関して基本的に古田さんの思考方法に賛同させてもらっています。その私がネットサーフィンをしている内に、強烈なアンチ古田の方のホームページにぶつかりました。「古田武彦の説のウソ」という表題です。その強烈さに眩暈がしたくらいです。

 まずはその方のホームページをご紹介したいと思います。

2−1 景初3年が正しい理由 http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-2-1.htm

多分、アンチ古田の方々にはスカッとする内容ではないかと思います。

 

 私の一冊目のノートは、このかたの主張についての感想とさせていただきます。この方の主張を読んでいただいたうえで、次回からの書き込みをお読みいただきたいと思います。

 

 というわけでご紹介する最初のノートは「古田武彦の説のウソ」と名付けさせていただきます。

 

 

はじめまして――記事№1

 始めまして、tokujiと申します。今年74歳になります。8年前に仕事をリタイアしています。

 

 趣味もなく、やることもないので歴史関係の自学、自習で時間をつぶしています。しかし、そろそろ一人でノートと本に向かっているのは、気怠くなってきました。同じ問題について誰かの意見も欲しいし、やはりわたしの主張も聞いてほしい。

 

 そこでブログを始めることにしました。誰か読んでくれる人がいればいいなー、そんな感じで始めます。よろしければおつきあいください。