s-tokuji’s blog

「景初二年、三年論争」の沿革――記事№4

2−1 景初3年が正しい理由古田武彦氏の説のウソ№2」―1 景初3年が正しい理由―その2

 

「景初二年、三年論争」の沿革

「景初二年か、三年か」という問題は、ご存知の方にとっては「今更」でしょう。しかし初見の方は「一年の違いが何ほどの事があるか」と思われるかもしれません。そこで一応私の認識をお伝えしておきます

二・三年論争以前

「景初二年か三年か」という議論に並行して、中国の史書に出て来る「邪馬台(臺・堆・壹)国」は何処かという議論があります。しかし両議論が議論らしい議論として登場するのは江戸時代に入ってからです。

それ以前は卑弥呼とは「日本書紀」等の国史中に登場する人物の誰にあたるかという推測が興味の中心だったと私は思います。卑弥呼神功皇后であるという説が独壇場だったようです。代表例が北畠親房で、「神皇正統記」の中で「卑弥呼神功皇后説」を唱えています。

邪馬台国が九州にあるというような議論は全くなかったようです。列島内の国家といえば大和朝廷しか想定できない、朝廷内の官僚、知識人の思索・著述しか残っていないのですから、そうなるのは当たり前かもしれません。

 やがて邪馬台国の呼称や、その位置にも興味が向きます。卜部兼方が、日本書紀の注釈書として知られる「釈日本紀」の中で、邪馬台国は「倭=ヤマト」の音をとったものとする説を唱えたそうです。

京都五山相国寺の禅僧・瑞渓周鵬は「善隣国宝記」で邪馬台国の位置を初めて論じたそうです。

江戸時代に入って邪馬台国の位置を九州に求める説が盛んに唱えられました。本居宣長の「熊襲偽僭説」がその嚆矢でしょう。ここで近畿説、九州説が出そろいました。

二・三年論争の始まり

倭の遣使が景初二年か三年かという議論は、江戸時代初期に近畿説を唱える松下見林が提起しました。見林は「三国志」に倭が景初二年遣使とあるのは間違いで、景初三年と訂正しなくてはならないと主張したのです。以後しばらくこの事は議論になりませんでした。明治に入ると、内藤湖南がそこに触れて遣使は景初三年と主張しました。この時も議論にはならず、景初三年遣使は定説となりました。

 二年であろうが三年であろうが邪馬台国が九州であるか、近畿であるかの大勢には関係ないというのが大方の見方だったのでしょう。

しかし、昭和に入り、戦後になると状況が大きく変わります

二・三年論争の激化

古代の遺跡から多く出土する遺物に銅鏡があります。その様式は様々です。様式の一つに、「三角縁神獣鏡」と呼ばれるものがあります。完成度が高く舶載鏡と分類され、おそらく魏の制作ではないかとされていました。

 

三角縁神獣鏡」はほぼ全国から出土しました。しかし圧倒的に近畿からの出土が多いのです。

 少し後の統計ですが、この様式の鏡は少なくとも540面は出土しているそうです。奈良100、京都66、兵庫40大阪38面と続き、福岡は40面でその他九州からや他の都県の出土は本当に少ないそうです。

圧倒的に近畿中心の分布になっています。

 

この出土状況に意味を見た人がいました。彼は近畿地方に統一政権があって、その政権の女王卑弥呼が、「三角縁神獣鏡」を魏の明帝から下賜され、それをさらに地方政権に下賜したのだ、と主張しました。

当然、主張したのは邪馬台国、近畿論の学者です。

 

九州説の立場の学者は魏の鏡ではなく、国産だと反論しましたが、統一政権についての反論は充分ではなかったように思います。そのうち「三角縁神獣鏡」が出土する遺跡について、卑弥呼の三世紀始めではなく、四世紀のものが大部分であることが判ってきました。

 

近畿論は伝世鏡理論で対抗しました。三世紀に貰ったものが子孫に伝わり子孫の代になって陪葬されたという理論です。

 

このように甲論乙駁が繰り返されるうちに、決定的とも思われる鏡が発見されました。

この鏡は制作年度を「景初三年」と銘記された島根県雲南市・神原神社古墳出土の「三角縁神獣鏡」です。この「三角縁神獣鏡」記銘の景観初三(239)年、は、この年、倭が魏に遣使した証拠。魏の答礼使が卑弥呼にもたらし、更に下賜された何よりの証拠の鏡だ、と主張されました。物的証拠が現れ、九州説は圧倒的に不利だと思われました

古田武彦の登場

そんな時、九州説の立場から逆襲の烽火を上げたのが古田武彦氏なのです。氏は考古学者ではなく文献史学者です。「三国志」の記事から遣使は景初三年ではなく、景初二年、そして下賜された鏡百枚も景初二年に準備された物だと論証したのです。すると下賜された鏡に、銘が入っているとしても「景初三年」という文言ではあり得ません。

 神原神社古墳出土の「三角縁神獣鏡」は卑弥呼の下賜された鏡と無関係になります。

 

このように遣使が二年であるか、三年であるかの議論は九州説、近畿説の存亡をかけた論争になっていたのです。