「古田武彦氏の説のウソ、の嘘」―1 景初3年が正しい理由―その2

「景初二年か三年か」にかかわる背景

 

「景初二年か、三年か」という問題は、ご存知の方にとっては「今更」でしょう。しかし初見の方は「一年の違いが何ほどの事があるか」と思われるかもしれません。そこで一応私の認識をお伝えしておきます。

 

 三種の神器の一つに鏡があります。この鏡は古代の遺跡から多く出土し、その様式も様々です。様式の一つに、「三角縁神獣鏡」と呼ばれるものがあります。

 この様式の鏡は少なくとも540面は出土しているそうです。奈良100、京都66、兵庫40大阪38面と続き、福岡は40面でその他九州からの出土は数少なく、圧倒的に近畿中心の分布になっています。

 この出土状況から「三角縁神獣鏡」は大和朝廷が地方の豪族に下賜したものだという説が生まれました。

 この鏡の中に制作年度を「景初三年」と銘記したものがあります。島根県雲南市・神原神社古墳出土のものです。この事から景初三(239)年、魏の答礼使が卑弥呼にもたらした鏡が更に下賜された、という説になりました。邪馬台国=大和だという事になります。邪馬台国近畿説の有力な根拠の一つとして説かれています(wikipediaより編集)

 

しかし景初三年記名の鏡を答礼使が持参したとすると問題が生じるのです。

 

三国志」には邪馬台国の使者が魏の都を訪れたのは景初二(238)年六月とあります。

「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡」

鏡はこの使者に持ち帰らせるように用意されました。それは景初二年十二月に発せられた卑弥呼に宛てた明帝の答礼の詔書に明確に記されています。

「皆裝封付難升米、牛利還到錄受。」

詔書のこの部分は「(下賜品)は皆裝封して(使者の)難升米と牛利に付す。還り到らば(目)錄を受け取るように。」とでも訳すのでしょうか。この詔書は難升米等にとって、いわば送辞を述べられたようなもので、発せられたという事は難升米達の帰國の日は目前だったでしょう。その直後、明帝は病を得、年が明けた1月に薨去します。すでに準備された下賜品の受け渡しは服喪等の諸事情によって中断され、後刻、答礼使が邪馬台国へもたらすことになります。

 下賜品に制作年度が入っていたとすれば詔書の発せられた景初二年十二月でなくてはならないはずです。また鏡などの工芸品は、詔書の発せられる前に造られていなければならなかったはずです。また使者の帰國に間に合わせるためにもそうでなければならなかったはずです。

下賜品に景初三年の銘が記せられていたという事は、私には想像できませんし、当然古代史の論壇でも問題になります。

そこで邪馬台国=大和説の方々から「三国志」の記事が三年を二年と誤記した、という説が発生しました。そして新井白石以下の説いた「戦中の使者は無理」という説も引き合いに出されるようになります。

卑弥呼の遣使を景初二年とするか、三年とするか、という事は「三角縁神獣鏡」が魏の下賜品かどうか、ひいては邪馬台国近畿説の存続にもかかわる問題になってしまっています。

( もろん、邪馬台国論争がこの一事で解決するはずはありません。)

以上が「景初二年か、三年か」という問題が発生した経緯だ、と私は理解しています。

 

A氏が邪馬台国=大和説の支持者であるかどうかは、ホームページの記事に無いので不明です